1900年の北京から学ぶ、組織と危機とリーダーシップの話(CEOブログ)
先日、義和団の乱(1900年)についての資料を読み込む機会がありました。いったいどんな機会だよって、感じですが…(笑)
「義和団の乱」と聞いてもピンとこない方も多いかもしれません。清朝末期の中国で、外国人排斥を掲げた農民運動が暴徒化し、日・英・米・仏・独・露・伊・墺の八カ国が連合軍を組んで鎮圧に向かった事件で、欧米では、団結して圧倒的な野蛮人の大群を撃退した美談として、語り継がれている清朝末の内乱です。
歴史の教科書では数行で終わる出来事ですが、現場で何が起きていたかを細かく見ていくと、組織論やリーダーシップについて、教訓となる話がいくつも出てきます。せっかくなので、今回はそれをビジネスの文脈で整理してみます。
廃材を繋いだら、大砲ができた
北京の公使館区域が包囲されたとき、八カ国の外交官・民間人・軍人が数万の敵兵に囲まれました。食糧も弾薬も底をつきかけている。そんな状況でアメリカ海兵隊の一等兵が、区域内に散乱していた廃材をかき集めて即席の砲を作りました。
砲身はイギリス製、砲車はイタリア製、砲弾はロシア製、導火線は日本製、火薬はドイツ製。平時には互いに牽制し合う列強の「廃棄物」が、一つの兵器になった。兵士たちはこれを「インターナショナル・ガン(国際砲)」と呼びました。
ビジネスでよく言われる「部門間連携」とか「クロスファンクショナルチーム」の話に似ているな、と思いました。平時は縦割りで動いている組織が、危機になると突然横串で動き始める。あれは必ずしも「意識の高さ」ではなく、「共通の恐怖」が背景にあることが多い。
だとすれば、危機が来る前に意図的に「共通の課題」を設定しておくことが、組織の連携を生む上で現実的な方法なのかもしれません。ミッションを綺麗な言葉で飾るよりも、「これが達成できなければ全員困る」という具体的な危機感を共有する。粗っぽいですが、そちらのほうが人は動く気がします。

事前準備は、誰も見ていないときにやるもの
この籠城戦で最も評価を受けた人物が、日本から派遣された柴五郎中佐です。

柴は北京着任直後から、城内の地理を自分の足で歩いて頭に叩き込み、現地の人脈を使って独自の情報網を張っていました。そういう地味な準備を、誰も注目していない平時のうちにやっていた。
包囲が始まり、各国の外交官や軍人がパニックに陥ったとき、冷静な状況判断ができたのは、柴だけだったといいます。イギリス公使は即座に彼を参謀長として重用し、期待に応え、大きな成果を残した彼を大評価したことが、「日英同盟」締結に繋がっていくと言われています。
この話で印象に残るのは、「準備のタイミング」です。彼が北京の地図を歩いて覚えていたのは、まだ何も起きていない時期でした。危機が来てから準備する人と、何も起きていないうちに準備する人の差が、有事にそのまま出た。
コンサルティングの仕事をしていると、「今は余裕がないから、落ち着いたら体制を整えます」という言葉をよく聞きます。ただ、落ち着いてから備える人は、次の危機にもまた間に合わない。余裕のない時期にも、地味で報われない準備をしておけるかどうか。これは個人にとっても、組織にとっても、なかなか難しいことです。
恵まれない人生でも諦めない
柴五郎の出自は、少し複雑です。
彼は会津藩士の家に生まれました。戊辰戦争で会津藩が敗れたのは1868年、彼がまだ八歳のときです。城が落ちる前日、母と姉と祖母が自刃した。その後、一家は「朝敵(賊軍)」の汚名とともに、極寒の下北半島へ流されました。
その柴が、明治の帝国陸軍の軍人として北京に派遣された。彼は虐殺から逃れてきた約二千八百人の中国人キリスト教徒を保護します。「食糧を消費するから追い出せ」という声がキリスト教徒の外国部隊から上がっても、柴はそれを拒否して最後まで守り抜いた。
彼の行動が個人の矜持によるものなのか、あるいは敗者の経験から来る何かがあったのか、正確にはわかりません。ただ、「正しいことをした人」が、必ずしも恵まれた立場や環境を歩んできたわけではない、という事実は残ります。
ビジネス現場でも、よく聞く話ですよね。修羅場をくぐってきた人、一度失敗を経験した人のほうが、危機の場面での判断が的確なことがある。順調に育ってきたエリートコースより、回り道をした人のほうが、現場の判断が強いことがある。採用や人事を考えるとき、「経歴の綺麗さ」だけでなく、「何を経験してきたか」を見ることの大切さを、改めて思います。
負の遺産をどう使うか
最後に、後日談をひとつ。
義和団の乱の後、清国は八カ国に対して莫大な賠償金(庚子賠款)を支払わされますが、その後、アメリカが実際の損害額より過剰に受け取っていたことが発覚しました。
駐米の清国公使・梁誠がこれを粘り強くアメリカ政府に働きかけ、1908年に超過分が返還されることになります。ただし「中国人留学生をアメリカに送るための奨学金として使う」という条件付きでした。その奨学生の予備校として北京に作られたのが、今日の清華大学の前身です。
アメリカの意図は「将来の中国指導者層に親米的な価値観を植え付ける」という、お得意のソフトパワー戦略であり、純粋な善意ではありません。でも、結果として暴力と賠償金と外交的打算の積み重ねが、一流大学になった。さらに、そちら出身者のエリートたちの存在が、今や、アメリカの覇権に挑む原動力となっている。
ビジネスで言えば、失敗したプロジェクト、撤退した事業、解散したチームの経験が、後になって別の文脈で大きな価値を持つことがあります。「この経験は何の役に立つんだ」と思っていたものが、思わぬ形で活きる。負の遺産を次の何かに転換できるかどうかは、それを「ただの失敗」と閉じるか、「何かに使えないか」と問い続けるかの違いだと思います。
歴史の話を読んでいると、いつも「結局、時代は変わっても、人間はほとんど変わらないな」と感じます。組織の縦割り、危機での判断、リーダーの準備、失敗の活かし方。1900年の北京で起きていたことと、今の会議室で起きていることは、構造が似ていることが多い。
だから歴史を読むのはやめられないのです。


