ピッチデッキは窓から捨てろ 〜 レジェンド外食創業者3人が、紙の上で考えることをやめた日(CEOブログ)
2008年の夏、私はソウルのオリンピック体操競技場の楽屋にいた。 日本のトップアーティストのアジアツアー初日。本番3時間前、現地スタッフから連絡が入る。電力系統に問題があり、開演中に音響が落ちる可能性がある、と。
進行表は無力だった。香盤も、ステージプランも、半年かけて練られた企画は、その瞬間からただの紙くずになる。残されたのは、目の前の事実に対して、今この場で何を決めるか、それだけだった。
どういうわけか、あの夜のことを、かのゼンショー創業者・小川賢太郎さんの訃報を聞いて想い出した。 そして、ふと考えた。あの楽屋に小川さんが立っていたら、何をしただろうか。そして、同じく畏敬する外食業界の巨星、正垣泰彦さんなら。宗次徳二さんなら。
外食という、人間の最も根源的な欲求を相手にする業界で、一代で帝国を築いた3人の創業者、彼らに共通するのは、ある一点だ。
全員、ある日を境に、紙の上でばかり考えることをやめている。
このところ、「スタートアップはオワコン」「いや、オワコンはVCだ」という議論が賑やかだ。それを否定する気はない。ただ、この3人の行動記録を並べてみると、そんな議論も、些か青臭く感じてしまう。彼らが残したのは、戦略でもビジョンでもなく、ある日の具体的な決断と、それを翌日も翌々日も繰り返した記録だけだからだ。
順に書く。
1. 小川賢太郎 〜 東大中退者が、横浜港で見たもの
小川さんは東京大学に入り、学生運動に身を投じ、中退した。 ここまでは、当時の活動家の典型的な経歴と言っていい。彼が他の活動家と分かれたのは、その次に選んだ場所だった。

横浜港の荷揚げ。
書斎ではなく、港湾労働の現場に入った。理論ではなく、肉体で資本主義と向き合うために。そこで小川さんが見たのは、組織論でも階級論でもなかった。重い荷を運び終えた男たちが、何を口に入れているか、という事実だった。
腹を満たすカロリー。それが安く、早く、確実に供給されること。 労働者の生活を本当に支えるのは、イデオロギーではなくこれだと判断した小川さんは、迷わず吉野家に入社する。エリートが牛丼屋のシフトに入った。深夜の店舗で、玉ねぎを刻み、丼を運び、レジを打った。
やがて吉野家は会社更生法を申請する。倒産だ。 普通なら絶望する場面で、小川さんは違った。チェーン店という仕組みが、なぜ、どこで、どのように壊れるのか。倒産していく会社の内部で、その構造を観測し続けたのだ。
1982年、横浜・生麦。港湾労働者と工場勤務者が住む街で、すき家1号店が開業するが、彼にとっては創業の地として、これ以上にふさわしい場所は他にない。彼が東大の図書館で読んだどの本よりも、横浜港の岸壁が、彼の事業の出発点だった。
ゼンショーが掲げた「世界から飢餓と貧困を撲滅する」という理念は、後付けのスローガンではない。生麦の店舗で出した一杯の牛丼の、論理的な延長線上にある言葉だ。
2. 正垣泰彦 〜 店が全焼した翌朝、彼が捨てたもの
正垣さんは東京理科大の在学中に、千葉県市川市で洋食店を始めた。
ある日、店内で酔客同士が揉めた。ストーブが倒れ、店は全焼する。 若き日の正垣さんが手にしていたものは、その日すべて灰になった。
それでも彼は店を建て直した。だが、客は来なかった。 ここからが、この人の本当の話だ。

普通の経営者なら、立地のせいにする。腕のせいにする。広告を打つ。彼はそのどれもしなかった。代わりに、たった一つの問いを自分に立てた。
「客が来ない理由は、価格が高いからではないか」
そして、メニューをイタリア料理に絞り、全品を当時の相場の7割引にした。スパゲッティ150円。サラダ200円。ほとんど自殺行為と言っていい価格設定だ。
連日、店に行列ができた。 だが、当然ながら、この単価では普通に営業すれば赤字になる。正垣さんはここで、外食業界の常識からすると信じがたい決断を下す。
店から包丁をなくした。
自社農場を持ち、自社工場で野菜のカット、肉の処理、ソースの仕込みをすべて済ませてしまう。店のキッチンに残されたのは、温める作業と、皿に盛る作業だけ。料理人の腕は、もはや変数ではなくなった。
これが、サイゼリヤが今も続けている業態の原型だ。 全焼した店の前で立ち尽くした理系青年が、「料理人の腕」という最も美しい変数を、自らの事業から消し去った瞬間だった。美意識ではなく、数字で店を建て直したのだった。
3. 宗次徳二 〜 朝3時55分、1000枚のハガキ
宗次さんの幼少期は、語るのが憚られるほど悲惨だ。孤児院から引き取られた後も、雑草を食べて空腹をしのいだ日があったと、ご本人が書かれている。

不動産仲介業を経て、妻と喫茶店を開いた。そこで出していた奥さんのカレーが客に当たり、カレー専門店へと舵を切る。これがCoCo壱番屋の始まりだ。
宗次さんの経営には、戦略らしい戦略がない。 業態転換の物語も、M&Aの逸話も、目を引くマーケティング手法も、ほとんど存在しない。あるのは、ただ一つのルーティンだけだ。
毎朝3時55分起床。誰よりも早く出社。全国の店舗から段ボールで届くお客様アンケート1000枚以上を、毎日、1枚も漏らさず自分で読む。
これだけ。 これを、店舗数が日本一になっても、上場しても、引退の日まで続けた。
「カレーがぬるかった」と書かれていれば、その場で店舗に電話する。「店の前にゴミがあった」と書かれていれば、その日のうちに清掃させる。宗次さん自身も、毎朝、店の周りをホウキで掃いていた。
中間管理職を挟まない。会議体を挟まない。報告書を挟まない。 顧客の手書きの一文と、現場の改善との間に、何も挟まなかった。
経営論的にはいかがなものか?だ。だが、彼は最後までこのスタイルでやり切った。そして、CoCo壱番屋は、戦略ではなく、この往復運動の蓄積の賜物なのだ。
紙の上で考えることをやめた日
3人に共通するのは、必ずしも頭の良さでも、資金力でも、人脈でもない。 ある日を境に、紙の上でばかり考えることをやめた、という一点だ。
小川さんは東大の図書館を出て、横浜港の岸壁に立った。 正垣さんは焼け跡の前で、料理人の腕という幻想を捨てた。 宗次さんは経営戦略書を閉じて、ハガキの束を開いた。
紙を捨てた彼らが信用したのは、目の前の事実だった。
冒頭の話に戻る。
あの日以来、私は企画そのものよりも、「泥臭く、当たり前のことを当たり前に行う習慣」「予定通りいかなかった際のシミュレーションの徹底と現場力」に重きを置くようになった。
スタートアップが終わったかどうかは、私にはわからない。 ただ、改めて、3人の偉大な創業者が残した行動記録を読み返すと、こう思う。
イケてるピッチデッキを書く時間があるなら、「客のところへ行け。 情報を集めて、考え抜け。現場に立て」。
それだけが、たぶん、ずっと変わらない原則だ。

